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第五話 余白の書き込み

مؤلف: 春野ケイ
last update تاريخ النشر: 2026-10-31 06:17:31

声をかけるか迷っていると、久世のほうが先に気づいた。

「……早いな」

眼鏡の奥で、目が少し丸くなっていた。驚いた顔も、初めて見る。

「そっちこそ」

「いつもこのくらいだから」

「いつも?」

「祖母がそうだった。五時に起きて、朝のうちに家のことを全部済ませる。一緒に住んでたら、うつった」

それで、と思った。お風呂も、タオルも、ゴミ出しも。私が起きるころには、この人はもう三時間近く動いていたことになる。

「……眼鏡なんだ」

「会社ではコンタクト」

久世は少し決まり悪そうに、つるに触れた。外すかと思ったけれど、外さなかった。

黒い縁の眼鏡ひとつで、ずいぶん印象が変わる。人に囲まれているときの隙のなさが消えて、どこか学生のころの顔が透けて見えた。

この顔を、営業部の誰も知らないのだと思った。思ってから、どうしてそんなことを考えたのか、自分でもわからなかった。

「コーヒー、いる?」

「……いただきます」

久世が台所へ立った。私は縁側の端に腰を下ろした。板が、朝の冷たさを吸っていた。

戻ってきた久世は、マグカップを私の横に置いて、座布団ひとつ分あけて座った。

一口飲むと、甘かった。何も聞かれなかったのに。

膝の上の本が目に入った。『不動産取引の法律実務』。法務部の私の机にも、同じ本がある。ただ、久世のそれは、ページの横から色とりどりの付箋がはみ出して、背表紙が割れかけていた。

「営業なのに、そんなの読むの」

「営業だから読む」

「わからなければ、法務に聞けばいいじゃない」

「聞いてる」

久世は付箋のひとつを開いて、本をこちらに向けた。

余白に、ボールペンの小さな字で書きこみがあった。

――「相当期間」は通常二週間~一ヶ月。相手方が個人なら長めに見る。(真柴)

――特約は消費者契約法十条に注意。無効とされた例あり。(真柴)

息が止まった。

私の言葉だった。赤字の質問が届くたびに、私が返してきた答え。「了解」の二文字しか返ってこなかった答えが、ここに書き写されていた。

「……これ」

「真柴の答えが、いちばんわかりやすいから」

久世はマグカップに口をつけた。

「ほかの人に聞くと、ケースバイケースで終わる。真柴は、なんでそうなるかまで書いてくれる。だから、わからないところは真柴に回してた」

粗探しだと思っていた。嫌がらせだと思っていた。入社した年から、ずっと。

「……それなら、言ってくれればよかったのに」

「何を」

「わかりやすいとか。助かったとか」

言ってから、頬が熱くなった。これでは、褒めてほしかったみたいだ。

久世はしばらく黙っていた。それから、眼鏡を指で押し上げた。

「言ってなかったか」

「『了解』しか聞いてない」

「……そうか」

それきりだった。言い直してくれるわけでもない。でも、眼鏡の縁の向こうで、耳が少し赤くなっているように見えた。朝日のせいかもしれない。たぶん、そうだ。

「家事のことだけど」

「ああ」

「私の家事が信用できないから、先にやってたんじゃないの」

久世が、本当に意外そうな顔でこちらを見た。

「なんでそうなる」

「だって」

「荷解きで、毎晩遅くまで起きてただろ。二階の明かり、ずっとついてた」

「……見てたの」

「見えるんだよ、庭から」

久世は庭のほうへ顎を向けた。私の部屋の窓が、ちょうど真上にあった。

「だから、朝くらい寝てればいいと思った。それだけ」

それだけ、と言われても困る。三千円まで取ったのに。

瓶の底で丸まっている三枚の札を思い出して、急に恥ずかしくなった。

「罰金、返す」

「いい。違反は違反だろ」

「でも」

「契約は守らないとな」

そう言って、久世はまた本に目を落とした。口元が、ほんの少しだけゆるんでいた。

*

それから二人とも黙ったまま、コーヒーを飲んだ。

庭の隅で、紫陽花の葉が朝露に濡れていた。花はまだ、緑色の固いつぼみのままだった。どこかの家で、雨戸を開ける音がした。

気まずくはなかった。それが、いちばん不思議だった。七年間、廊下ですれ違うたびに息が詰まっていた相手と、黙ってコーヒーを飲んでいる。

飲み終えて立ち上がるとき、開いたままの本が目に入った。

付箋の書きこみには、どれも小さく日付が添えてあった。めくれた付箋の端に、いちばん古いものが見えた。

入社した年の、秋だった。

私が、この人に嫌われていると思いはじめたころだ。

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